前回のおさらい
前回紹介した「忘却のワクチン」は、デジタル記録が改ざん可能であることを指摘し、デジタル記録を過度に信頼することに警鐘を鳴らしていました。今回紹介する「偽りのない事実、偽りのない気持ち」(テッド・チャン)は、一歩進んで、「記録」というもの自体が抱える矛盾を指摘します。
「偽りのない事実、偽りのない気持ち」あらすじ
一つ目の物語の舞台は、今まで網膜に映ってきた光景を「ライフログ」として記録できる近未来。ライフログを瞬時に検索できるツール「Remem」(リメン)の登場により、人類は曖昧な記憶に頼らず常に正確な記録にアクセスできるようになった。そうして完全な「デジタル記憶」を持ったら、人はどうなってしまうのか。ジャーナリストである「私」はリメンの取材を始めるが...
もう一つの物語の主人公、ジジンギは文字を持たない民族であるティヴ族の少年だ。村にやってきた伝道師のモーズビーからジジンギは文字を教わり、成長して書記の職を得る。しかし、次第にジジンギは書記として求められる「正しさ」と、口承を重んじる部族の面々が求める「正しさ」にズレがあることに気づいていく。
ちょっと一言
「正しい」とはどういうことか、考えさせられる作品です。
例えば、アマゾンの購入履歴に買った覚えのない商品があったとしたら、あなたはどうしますか?システムのバグだと思って返品するか、あるいは買ったのを忘れてたと思って商品を受け取るか。どっちにしてもあなたは、デジタル媒体の「記録」とあなたの「記憶」のどちらが正しいと信じるか、選ばなくてはなりません。
リメンによってもたらされる完全無欠な「デジタル記憶」に対して主人公は最初は批判的でした。しかし最後にはリメンの使用を推奨するようになります。どのようにして彼がデジタル記憶を受け入れるようになったか、その過程にデジタル記憶とどう付き合えばいいのかのヒントが示されているように思います。
また、本作を読んでいてすごいと思ったのが、文字というアナログ記録とライフログというデジタル記録を同列に扱っている点です。客観的な記録という点から見れば、何百年も前からライフログと同様の機能を持つ文字という媒体と人類は付き合ってきた、という見方には、はっとさせられました。
次回予告
「忘却のワクチン」、「偽りのない事実、偽りのない気持ち」と、「デジタル記録→文字記録」という流れが来ているので、次回は「口承」に関係する作品を取り上げます。本企画の中で扱う作品の中では一番古い作品になるはずです。お楽しみに。