生成方法

①「オデュッセイア」と「イーリアス」について、自分のあやふやな知識で適当な文章を書き散らす。

②チャットGPTに「クリストファー・ノーランの映画「オデュッセイア」の公開に先駆けて、有名作家に「オデュッセイア」と「イーリアス」についてインタビューをしました。インタビューの書き起こしを送るからいい感じに仕上げて。ファクトチェックもしてね」と投げる。

③生成された記事に延々と脚注をつける

以下、AI君の仕上げた本文が始まります。真面目にファクトチェックしてないので、言ってることは鵜呑みにしないように。

なぜ『オデュッセイア』は、トロイア戦争を描かないのか

ノーランの新作を前に、ホメロスの二大叙事詩を読む

クリストファー・ノーランが『オデュッセイア』を映画化する。

このニュースを聞いたとき、まず思い浮かぶのは、巨大な木馬だろうか。それとも、海をさまようオデュッセウス、怪物キュクロプス、歌声で船乗りを惑わせるセイレーンだろうか。

ところが、ホメロスの『オデュッセイア』を実際に読んでみると、少し意外なことに気づく。

『オデュッセイア』は、トロイア戦争そのものを描く物語ではない。

それどころか、もう一つの大叙事詩『イーリアス』も、トロイア戦争の全10年間を描いているわけではない。

二つの作品は、巨大な戦争という物語の「途中」を切り取っている。

ここに、ホメロスを読む面白さがある*1


トロイア戦争なのに、戦争そのものを描かない

そもそもトロイア戦争とは何なのか。

ギリシア神話では、トロイアの王子パリスがスパルタ王メネラオスの妻ヘレネを奪ったことが大きな発端となり、ギリシア側の英雄たちがトロイアへ遠征する。

その背景には「パリスの審判」がある。ゼウスの妻ヘラ、知恵の女神アテナ、愛と美の女神アプロディテの三女神が「誰が最も美しいか」を争い、パリスがアプロディテを選ぶ。その見返りとして、アプロディテは世界で最も美しい女性ヘレネを約束する――という、いかにもギリシア神話らしい無茶苦茶な話だ*2

ただし、ここで一つ訂正しておきたい。

トロイアを攻めたのは「アテネ」ではない。

アカイア人(ギリシア人)を中心とする連合軍とトロイア人の戦いである。アテネという都市国家がトロイアと戦った、という話ではない。

しかも、この戦争には神々まで介入する。

ゼウスをはじめとする神々がギリシア側とトロイア側に分かれ、人間の戦争に肩入れする。英雄が死にそうになれば神が助け、戦場に直接姿を現すことさえある*3

現代の感覚からすれば、かなりの反則である。

しかし、そんな10年に及ぶ大戦争を、ホメロスは最初から最後まで描かなかった。

『イーリアス』が扱うのは、トロイア戦争10年目のごく短い期間である。中心にあるのは、ギリシア軍の英雄アキレウスの「怒り」だ*4

つまり、作品のタイトルにもなっている「イーリアス」は、トロイア戦争全史ではない。

戦争という巨大な物語の一部分だけを切り取った作品なのだ。


『イーリアス』にトロイの木馬は出てこない

ここは、トロイア戦争を映画などで知っている人ほど驚くところだろう。

「トロイの木馬」は、トロイア戦争を象徴する最大級の名場面である。

ところが――

『イーリアス』には、トロイの木馬は登場しない。

アキレウスとパリスが戦い、パリスがアキレウスの弱点である「アキレス腱」を射抜いて殺す場面も、『イーリアス』にはない。

そもそも『イーリアス』は、アキレウスの死より前に終わる。

作中では、アキレウスがやがてパリスとアポロンによって死ぬことが予告される。しかし、その死そのものは描かれない。

「アキレス腱」の物語も、ホメロスの『イーリアス』にあるわけではない。アキレウスが踵だけ不死身ではないという話は、後世の伝承によって広まったものだ*5

では、トロイの木馬はどこに出てくるのか。

実は『オデュッセイア』には、木馬そのものが登場する場面はある。ただし、トロイ陥落の全貌を長々と描くわけではない。『オデュッセイア』第8巻では、吟遊詩人デモドコスが木馬の物語を歌い、それを聞いたオデュッセウスが涙を流す。

木馬によるトロイア陥落を詳しく扱った叙事詩として知られるのは、現在は断片しか残っていない叙事詩環の一つ、『イーリオスの陥落』である。後世のアポロドーロスなどにも詳しい物語が残されている。

つまり、われわれが「トロイア戦争の名場面」として知っているものは、ホメロスの二大叙事詩だけからできているわけではない。

後世のさまざまな作品によって巨大な神話体系が組み上げられているのである。


「ラオコーン」は誰に殺されたのか

木馬をめぐる話で、もう一つ有名なのがラオコーンだ。

トロイアの神官ラオコーンは、木馬を信用するなと警告する。しかし、二匹の巨大な蛇が現れ、ラオコーンとその息子たちを襲う。

この場面を描いたのが、古代彫刻の傑作として知られる《ラオコーン群像》だ*6

ただし、ここにも少し複雑な事情がある。

「ラオコーンを殺した蛇を誰が送り込んだのか」については、伝承によって異なる。

ウェルギリウスの『アエネーイス』では、ミネルウァ(ギリシア神話のアテナに相当)が蛇を送り、ラオコーンと二人の息子が殺される。一方、アポロドーロスの伝承ではアポロンが関わる。古代の物語は一つの「正典」に固定されているわけではないのだ。


「途中から始まる」という物語の技法

こうして考えると、『イーリアス』の構造が非常に現代的に見えてくる。

10年間続いた戦争の最初から始めるのではなく、10年目の戦場から始める。

しかも、物語の中心に置くのは「戦争」そのものではなく、アキレウスの怒りだ。

物語の途中から始めることを、ラテン語で「in medias res(事のただ中へ)」という*7

これは古典叙事詩を語る際によく使われる表現だ。

そして、この構造は『オデュッセイア』にも受け継がれている。


『オデュッセイア』は、帰還の物語である

『イーリアス』が「怒り」の物語なら、『オデュッセイア』は「帰還」の物語だ。

トロイア戦争を終えた英雄オデュッセウスが故郷イタケーへ帰ろうとする。

ところが、帰れない。

海神ポセイドンに目をつけられ、怪物や魔女や海の難所に次々と遭遇する。

その旅は10年にも及ぶ。

ただし、ここでもホメロスは物語を「旅の始まり」から始めない。

『オデュッセイア』の冒頭では、オデュッセウスはすでに長い旅を終えかけている。彼はカリュプソのもとに囚われており、神々が彼の帰還について相談している。

そして物語はイタケーの息子テレマコスへと移る。

やがてオデュッセウスはパイエーケス人の国へたどり着き、それまでの冒険を自ら語ることになる*8

ここでもまた、物語は「途中から始まる」。


セイレーンの歌を「聞きたい」男

『オデュッセイア』の冒険譚で、現代人にも特に有名なのがセイレーンだ。

船乗りを美しい歌声で誘惑し、死へと導く怪物。

ここで面白いのが、オデュッセウスの対策である。

部下たちの耳には蝋を詰める。

そして、自分自身は――

聞く。

ただし、マストに体を縛りつける。

セイレーンの歌を聞きたい。しかし、歌に魅了されて船をセイレーンのもとへ進めるわけにはいかない。

そこで「聞こえるようにして、動けないようにする」。

ものすごくオデュッセウスらしい解決策だ。

この逸話が面白いのは、彼が単純に誘惑を拒絶しているわけではないことだ。

誘惑されることを知ったうえで、誘惑を経験しようとしている。

現代の言葉にすれば、かなり危険な自己管理である。

ちなみにセイレーンは、古代ギリシアでは鳥の身体に女性の頭部を持つ姿などで表現された。一方、現代では人魚のような姿でイメージされることも多い。

そして、その「サイレン」は英語の siren から来ており、警報音の「サイレン」と同じ語源を持つ。


スターバックスのロゴもセイレーン

そう考えると、コーヒーチェーンのスターバックスのロゴがセイレーンなのも、なかなか洒落ている。

スターバックス自身の説明によれば、創業者たちは1971年、シアトルという港町とコーヒー貿易の海とのつながりを意識し、海洋関係の古い本に描かれていたセイレーンをロゴの着想にしたという。

「船乗りを歌で誘惑する怪物」を、「コーヒーで客を店へ誘う美女」に置き換えたわけだ*9

ちなみにスターバックスの名前そのものは、メルヴィルの『白鯨』に登場する一等航海士スターバックから取られている。

海、船、セイレーン。

こうして見ると、スターバックスには妙に海洋文学的なDNAがある*10。。


「ウーティス」は、古代の言葉遊び

もう一つ、『オデュッセイア』を象徴するエピソードがキュクロプスの話だ。

一つ目の巨人ポリュペモスに捕まったオデュッセウスたちは、仲間を次々と食われてしまう。

そこでオデュッセウスは、自分の名前を尋ねられて、

「ウーティス」

と名乗る。

ギリシア語で「誰でもない」という意味の名前だ。

夜になってポリュペモスが眠ると、オデュッセウスたちは彼の目を潰す。

痛みに叫ぶポリュペモス。

仲間のキュクロプスたちが、

「誰がお前を傷つけた?」

と尋ねる。

すると、

「ウーティスだ! ウーティスが俺をやった!」

と答える。

つまり、

「誰でもない奴にやられた」

ということになる。

仲間たちは「誰にもやられていないのだろう」と考えてしまう。

これは、オデュッセウスの「知恵」を最も端的に表すエピソードだ*11

しかも彼らは、ポリュペモスの飼っている羊の腹側にしがみついて洞窟から脱出する*12

ここで重要なのは、これは単なる「頭のいい男が怪物を倒す話」ではないということだ。

オデュッセウスは、言葉そのものを武器にしている。

自分の名前を偽ることで、敵の言葉を敵自身に無効化させる。

戦闘能力ではなく、言語と知略によって生き延びる英雄。

これがオデュッセウスという人物の最大の魅力だろう。


そして最後に、知略の英雄は妻に試される

『オデュッセイア』の最後に待っているのは、オデュッセウスとペネロペの再会だ。

ここにも「知略」がある。

オデュッセウスが帰ってこない間、ペネロペには数多くの求婚者が押しかける。

彼女は、夫の父ラエルテスの死装束を織り終えるまでは再婚しない、と宣言する。

しかし昼に織ったものを、夜になるとほどいてしまう。

こうして求婚者たちをだまし続ける。

こちらもペネロペの知恵を示す有名なエピソードだ。

やがてオデュッセウスは帰還し、求婚者たちを弓で射殺する。

そして、いよいよ妻との再会だ。

ところがペネロペは、すぐには夫だと認めない。

ここが、この物語の非常に美しいところである。

ペネロペは侍女に、夫婦の寝台を外へ運び出すよう命じる。

するとオデュッセウスが怒る。

そんなことはできない。

なぜなら、その寝台は庭に生えていたオリーブの木を中心にして作られており、動かすことができないからだ。

その秘密を知っているのは、オデュッセウスとペネロペだけ。

そこでペネロペは、目の前の男が本当に夫だと確信する。

この場面は、単なる「妻が夫を見分けました」という再会ではない。

知略の英雄オデュッセウスが、最後には知略の妻ペネロペによって試される*13

二人とも、最後まで互いの知恵を試しているのだ。

そう読むと、20年ぶりの夫婦の再会が、ぐっと鮮やかになる。


「オデッセイ」という言葉になった物語

『オデュッセイア』が後世に与えた影響は、古典文学の世界だけにとどまらない。

英語の odyssey は、長く困難な旅、冒険的な遍歴を意味する言葉として定着した。

映画『2001年宇宙の旅』の原題が 2001: A Space Odyssey なのも、そのためだ。

宇宙船で木星へ向かう旅と、古代ギリシアの英雄が海を越えて故郷へ帰る旅。

一見するとまったく違う物語だが、そこには「未知の世界を進み、さまざまな試練を経て、自分のいるべき場所へ向かう」という共通点がある。

だから「オデッセイ」という言葉は、いつしか単なる固有名詞ではなくなった。

旅そのものを意味する言葉になった。


ノーランは、どこから『オデュッセイア』を始めるのか

ここまでホメロスの二つの叙事詩を振り返ってみると、クリストファー・ノーランが『オデュッセイア』を映画にすることの面白さが見えてくる。

『オデュッセイア』には、映画にしたくなる場面がいくらでもある。

セイレーン。

キュクロプス。

キルケー。

カリュプソ。

スキュラとカリュブディス。

そして、故郷イタケーへの帰還。

だが、原作の面白さは、それらを単純につないだ「冒険映画」ではない。

物語はすでに始まっている。

主人公は、すでに長い旅をしている。

過去の冒険は後から語られる。

そして最後に待っているのは、怪物を倒すことではなく、「自分が誰なのか」を妻に証明することだ。

これは、ノーランがこれまで好んできた物語構造とも、不思議なほど相性がいい。

時間を入れ替える。

情報を隠す。

過去の出来事を後から見せる。

一つの出来事を別の視点から見せる。

そうして観客に「今、何が起きているのか」を考えさせる。

ホメロスの『オデュッセイア』そのものが、すでにそういう物語なのだ。


だから、トロイア戦争を知らなくてもいい

『イーリアス』と『オデュッセイア』について調べていると、トロイア戦争の巨大な神話体系に圧倒される。

パリス。

ヘレネ。

アキレウス。

ヘクトル。

オデュッセウス。

木馬。

神々。

10年間の戦争。

そのすべてを知っていなければ『オデュッセイア』を楽しめないように思えてくる。

しかし、実際には逆なのかもしれない。

ホメロス自身が、10年間の戦争を全部描かなかった。

アキレウスの死も描かなかった。

木馬によるトロイア陥落も、正面から描かなかった。

そして『オデュッセイア』では、オデュッセウスの10年に及ぶ旅さえ、物語の途中から始めた。

巨大な物語の全部を語らなくても、物語は成立する。

むしろ、語らない部分があるからこそ、読者は想像する。

どこから始めるのか。

何を見せないのか。

誰の視点から語るのか。

そして最後に、何を明らかにするのか。

それこそが、2000年以上読み継がれてきた『オデュッセイア』の物語技法なのだろう。

ノーランがこの古代の物語をスクリーンに移すとき、最大の見どころは、キュクロプスやセイレーンをどれほど壮大に描くかだけではない。

ホメロスが「語らなかったもの」を、ノーランがどう映像化するのか。

そこにこそ、この映画を見る最大の楽しみがあるのではないだろうか。

*14