原案・監督:loundrow、脚本:安達寛高(乙一)の2021年の映画「サマーゴースト」、観てきました(一か月前)
最初に「サマーゴースト」を知ったのは夏の終わりだった。「劇場版少女歌劇 レヴュースタァライト」をもう一度観ようと、はるばる立川立飛の映画館に出張った時に予告編が流れたのだ。
「脚本:安達寛高(乙一)」
この文字が目に飛びこんできて、これは絶対観ようと思った。小生、オツイチ作品とはとても波長が合うのである。そして迎えた公開初日。バイト帰りに渋谷のTOHOシネマズに向かった。
観ているあいだは、「生者が死者を羨む時代がやってきた」という何かの小説の一節がずっと頭の中をぐるぐるしていた。40分という短さは、全く感じなかったのを覚えている。「レヴュースタァライト」のような圧倒的熱量とも、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のような圧倒的作画力とも違う魅力がある作品だった。
数日置いてから、映画公開前に購入してしばらく寝かせていた、乙一の小説版を読む。
「さすが乙一、そう来なくてはな!」すぐにそう思った。映画版では、3人の主人公たちがどこで知り合ったのかは明確にされない。ところが小説版では、自殺志願者が集まるサイトで知り合ったという闇が深い事実が冒頭から明らかになる。うん、やはりそうこなくては。
続いて、主人公の母親の毒親レベルでも予想を超えてきた。主人公が大切にしていた「サマーゴースト」の肖像画を、母親が主人公の手で破り捨てさせるシーンは衝撃的だった。
登場人物たちの軽妙なやり取りがあるかと思うと、彼らの自殺願望や毒親のような不穏な要素が突然飛び出してくる。小生は、乙一作品のそういうところが好きだ。軽妙な文体で読者を安心させておいて、不意にどす黒いものを突き付けるそのスタイルが好きだ。
ところで小説版で破られてしまった肖像画だが、いま、小生の部屋にはその肖像画が飾られている。
劇場で配られていたクリアファイルだ。小説版では破られてしまったこの絵が、映画版では破られずに残るのは少しうれしい。なぜなら、この絵はいい絵だからだ。毎日見てるからわかる。
小生は映画版も小説版も両方好きだ。映画版は肖像画が破られずに残ってくれるのが好きだし、小説版は肖像画が破られてしまうのが好きだ。何を言っているのか分からないと思うが、小生も何を言っているのか分からない。
最後に、「サマーゴースト」で一番いいと思うところを挙げて終わりにしたい。それは、主人公が「もう少しだけ生きてみることにした」といって自殺を思い留まるところだ。
なんともふわっとした理由だけど、それでいいと思う。死ぬのをやめるのにドラマチックな理由は必要ない。「アニメの次の回を観たいから」、「ちょっと食べたいものを思いついたから」、そして「絵に描きたいものが出来たから」。そういう理由で死ぬのをやめてもいいんだよ、という、これはメッセージだと思った。