「パリスの審判」？「トロイの木馬」？ いいえ、「イーリアス」はその間に起こった出来事を描きます。
前回のおさらい
前回の「偽りのない事実、偽りのない気持ち」（テッド・チャン）では、口承を重んじる部族ティブ族に、文字が伝えられる様が描かれました。今回は「口伝と文字」という流れに従って、古代ギリシアの時代に口承によって語り伝えられた叙事詩「イーリアス」（ホメロス）を紹介します。
「イーリアス」あらすじ
トロイア戦争の最後の50日間を、「アキレウスの怒り」をテーマに描いた叙事詩。「パリスの審判」が原因で勃発したアカイア（ギリシア）とトロイアの戦争は10年目にさしかかり、膠着状態を迎えていた。
捕虜の扱いを巡りアカイア軍の総大将アガメムノンと仲違いした英雄アキレウスは、戦線に出ることを拒否する。これを好機とばかりに、トロイアの英雄ヘクトルは総攻撃をしかけ、神々もこれに加勢する。追い詰められたアカイア軍を救うために、アキレウスの友人パトロクロスが提案した秘策とは...。
ちょっと一言
本作に出会ったのは教養課程の「西洋古典学」という授業でした。古典ギリシア、ラテンが大好きなおじいちゃん教授がニコニコしながら有名な古典について解説してくれる授業で、当時一番楽しみにしていた授業でしたね。
私の思い出話はさておき、「イーリアス」は厳密にいえば小説ではなく、「韻律」というルールに従って進む「叙事詩」です。そのため、読むときに少し注意が必要になります。
叙事詩の韻律は「ヘクサメトロス」と呼ばれます。大雑把にいうとヘクサメトロスとは「長短短、長短短、長短短、長短短、長短短、長短」という6つのリズムの繰り返しで*1、「イーリアス」は全編このリズムに従って進んでいきます。
韻律がある詩では、韻律を崩さないためにたびたび冗長にも思える形容語句が使われます。これらを「エピセット（epithet、ἐπίθετον）」といいます。そしてエピセットの存在こそが叙事詩と散文の最大の違いと言えるでしょう。
例えば散文だったら単に「アキレウスが」と言うようなところで
「駿足の」アキレウス
「ペレウスの子」アキレウス
「ゼウスの寵児」アキレウス
「軍列の破壊者」アキレウス
「都市の略奪者」アキレウス
etc...
のようにエピセットが挟まるのが叙事詩です（「」内がエピセット）。ちなみに「イーリアス」の主人公ということもあり、アキレウスには56種類のエピセットがあると言われています*2。散文で読むと余計な形容詞が挟まっているように思えますが、原文の古典ギリシア語で読み上げるとエピセットのおかげで韻律≒リズムが保たれているのです。
0：44～で「イーリアス」の冒頭が読み上げられます。声に出して読むとちゃんとリズムがあることが分かりますね。
ヘクサメトロスがどんなリズムなのかを掴むにはこちら↓の動画の方がわかり易いと思います(古典ギリシア語ではなく古典ラテン語ですが)。ウェルギリウスの「アエネーイス」の音読です。
無理やり例えればエピセットは和歌でいうところの枕詞のようなものです。「アキレウス」という言葉を使って和歌を作るとします。「アキレウスはヘクトルと戦う」ということを言いたいけど、このままではうまく57577に収まりません。そこで、枕詞を使ってみましょう。
足速き
ゼウスの寵児
アキレウス
闘う相手は
勇猛ヘクトル
下線部が枕詞≒エピセット です。こうすると、うまく57577のリズムに収まりますね。同じようなノリでエピセットが使われていると思えば、叙事詩が読み易くなると思います。これを知っているだけで、叙事詩を日本語で読む敷居が一気に下がるので、是非この機会にお試しを。
次回予告
「イーリアス」の次には同じくホメロスの「オデュッセイア」を挙げたいところですが、韻文が続くとちょっときついので次回は散文に戻ります。ヘクサメトロスやエピセットは、声に出して伝えられる叙事詩だったからこそ発達した形式でした。こうした口承文学の伝統に敬意を表して、次回は声に出して執筆された小説を紹介します。
