ひつじ図書協会

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どこまで人を変えていいのか? 伊藤計劃「ハーモニー」

最終更新:2021/04/03

 

2008年の伊藤計劃の作品「ハーモニー」のあらすじと感想。ネタバレを含みます。

 

はじめに

質問:

Q.近代社会は人間に何者にも依存せず自立した存在であることを求める。しかし、何かに依存せずにはいられないのが人間の性である。この矛盾が依存症の発生という形で表出する。では、依存症を防ぐためにはどうしたらよいか?

 

模範解答:

A.生活の随所に「仲間」を持つことで、分散的かつ非公式な形で依存をするよう人間に促す。

 

要は常に自立を求める近代社会というシステムの抜け道を利用して、社会と人間の折り合いをつけよう、ということであろう。社会と人間、矛盾する両者のどちらも損なわずに解決を求める穏便で良い方法だと思う。しかし、「ハーモニー」の世界が出すだろう解答はこうだ。

 

A.依存するものを求める人間の本性を破壊すればよい。

 

 

「ハーモニー」あらすじ

人類の進歩と調和

舞台になるのは「大災禍」と呼ばれる混乱の時代を経て、人類が穏やかに統制された平和な社会を築き上げた世界。個人の命は社会全体の大切なリソースであるという意識が広まり、人々の健康は体内に仕込まれたナノマシン「WatchMe」で常にモニターされ、全ての病気は未然に防がれる。この世界では大切なリソースを破壊するような行動、例えば殺人や不摂生は穏やかに非難され、互いを思いやることが至上とされていた。

 

このような、あまりにも優しすぎる世界に息苦しさを感じ、ミァハ、キアン、そして主人公のトァンの三人の少女は自殺という形で反抗を企てる。しかし死ぬことが出来たのはミァハだけで、キアンとトァンは真綿で首を絞められるような世界に取り残された。

 

混沌のはじまり

13年後、成長し国連の監察官となったトァンは、紛争地域を渡り歩く日々を送っていた。普段は摂取が禁止されているアルコールや煙草も、紛争地域なら闇取引で手に入る。「優しさと健康でぎゅう詰めの社会」の抜け道を利用してかつての自分が抱いた社会への反抗をささやかな形で実現する日々を送るトァンだったが、ある日久しぶりに再会したキアンが目の前で喉を掻き切り自殺する。

 

時を同じくして世界各国で同時多発的に人々が自殺を試み、死んだはずのミァハから全世界に向けてメッセージが送られる。

 

 これから一週間以内に、誰かひとり以上を殺してください。それができない人には、死んでもらいます。

 

 

 

「ハーモニー」感想

統制の限界

「ハーモニー」の世界は一見誰も苦しむことが無くうまく回っているように見えるが、過剰な統制が引き起こす矛盾が自殺者の増大という形で表れている。人の性は真綿で首を絞められるようにじわじわと行動を制限されることに耐えられないのだろう。トァンや同僚のウーヴェのようにシステムの抜け道を利用して折り合いをつけられる人間もいるが、そうでない者の方が多いことは年々増加する若者の自殺率から明らかだ。

 

ではこの人間と社会の間の矛盾をどう解決するか。社会のシステムを変えてしまうわけにはいかない。そんなことをしたら統制の軛から放たれた人間の本性が再び「大災禍」を起こすだろう。ならば、人間を変えてしまうしかない。こうしてミァハが、そして「ハーモニー」の世界がたどり着いた結論は「自我」という人間の本性を破壊することだった。

 

どこまで変えていいのか?

ミァハの辿り着いた結論は、我々読者にはとんでもないように見える。しかし、この結論を論理的に否定しようとしても、「人間の本性は変えてはならない聖域だ」という倫理的な議論に持ちこむしかない。その問題にしても

 

 喜怒哀楽、脳で起こるすべての現象が、その時々で人類が置かれた環境において、生存上有利になる特性だったから付加されてきた「だけだ」ということになれば、多くの倫理はその絶対的な根拠を失う。

 

と、作中であっさりと否定されてしまう。人間の本性を変えることを妨げるものは何もないのだろか?人間の本性が破壊された調和ある世界と、人間が本性のままに生きる混沌の世界なら、どちらがましなのだろうか?慄然とさせられる問いかけをしてくる作品だ。

 

 

 

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

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