今回紹介するのは誰もが現代文の授業で読んだであろう名作、「羅生門」(芥川龍之介)です。
「羅生門」 あらすじ
ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。
戦乱で荒みきった京の都。荒れ果てた夕暮れの羅生門で雨宿りをしていた下人は、捨てられた死体から髪を抜く老婆と出会う。義憤を覚えた下人は老婆を面罵するが…
前回との繋がり
前回の「潮騒」(三島由紀夫)と同様に「羅生門」も古典を換骨奪胎する形で生まれた作品です。芥川龍之介の作品には他にもいくつか古典を元ネタにした短編があり、「鼻」などが代表的な例ですね。
少し思い出話をすると、高校の現代文の先生がユニークな人で「鼻」とその元ネタになった「池尾禅珍内供鼻語」(今昔物語集)、「鼻長き僧の事」(宇治拾遺物語)を比較研究せよという課題が出たことがありました。
元ネタになった今昔物語集の説話と「羅生門」を比べながら読んでみるのも、面白いかもしれません(実際に比べてみると、異同がかなりあるようです)
クソデカ羅生門
2020年6月に「羅生門」のパロディ作品である「クソデカ羅生門」という文章がはてなダイアリーに投稿され、Twitterで話題になりました。内容は、誰もが知っている「羅生門」を、極端に大げさな内容に改変するというもの。
ある日の超暮方(ほぼ夜)の事である。一人の下人が、クソデカい羅生門の完全な真下で雨やみを気持ち悪いほどずっと待ちまくっていた。
馬鹿みたいに広い門の真下には、この大男のほかに全然誰もいない。ただ、所々丹塗のびっくりするくらい剥げた、信じられないほど大きな円柱に、象くらいある蟋蟀が一匹とまっている。クソデカ羅生門が、大河のように広い朱雀大路にある以上は、この狂った男のほかにも、激・雨やみをする巨大市女笠や爆裂揉烏帽子が、もう二三百人はありそうなものである。それが、この珍妙男のほかには全然誰もマジで全くいない。
引用元:
「光の速さで保存した」「外に出るの五億年振り」「全人類に観て欲しい」のように、何かと大げさに言う昨今の若者言葉を思わせる「クソデカ羅生門」。意外にもすらすらと読める上に、次々と生み出される壮大な修飾語たちがクセになる、不思議な魅力を持っています。いったい、なぜでしょうか?
「クソデカ羅生門」のここが凄い
「クソデカ羅生門」の最大の特徴は「原文をそのままで残している」という点です。冒頭に引用した本家羅生門と比べてみれば分かると思いますが、作者は極端な修飾語句を付け加えているだけで、原文を全く削っていないのです。
きれぎれとはいえ原文の表現をそのまま残して原作者をリスペクトしつつ、独創的な修飾語句を足すだけで全く印象が異なる文章を作り上げた発想力。人によって好き嫌いは分かれるかもしれませんが、私は作者に拍手を送りたいです。
平安時代の古典「今昔物語集」の一種の二次創作として大正時代に生まれた「羅生門」は、令和の時代になって「クソデカ羅生門」という三次創作を生み出しました。こうして、本と本との繋がりが時代を超えて紡がれていくのは感慨深いですね。
次回予告
次回は、「羅生門」同様、誰もが一度は読んだことがある「教科書に載っているあの名作」を紹介します。