ひつじ図書協会

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いまさら劇場版スタァライト

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 前回、完全初見で「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」を観た感想をしたためた。今回は、アニメ全編と「再編集版」こと「ロンド・ロンド・ロンド」、そして当の新作劇場版を5回観た上での、「劇場版スタァライト」の感想を語っていきたいと思う。

どうして何度も観るのか

 まず、「どうして5回も観たのか」について。正直、劇場版スタァライトを勧めてくれた先輩や、ツイッターで見かけるファンの方々が軒並み何回も観ているのにつられたところもある。「みんな何回も観てるから、俺も観よう」みたいな。でも、周りからの影響がなくても多分周回していただろうとは思う。

 

 なぜなら、最初に観た時の衝撃がとにかく凄まじかったからだ。前情報一切なしで観に行ったから、キャラの名前すら知らない状態だった。それでも映画が持つ圧倒的熱量に気圧されて「これはすごい映画だ」と感じられた。「俺はなんで原作も観たことない作品の映画で、こんなに感動してるんだろう?」そう怖くなるくらいだった。

 

 家に帰ってアニメ版を一気見した。そして、もう一回映画を観たくなった。「前情報なしであんなに感動したのに、アニメ履修済みで観たらどうなるんだろう」と気になったのだ。

 

 だから、二周するところまではある意味既定路線だった。一回目は予習なしで観たら、二回目は予習アリで観たくなる。ただ、それだと二周した後も繰りかえし見続けた理由が説明できない。

 

観る度に上がる解像度

 正直、三回目のチケットをとったときは自分でも「何で俺は同じ映画を何回も観てるんだろう」と思った。映画館に何度も足を運んでるのに、観るのはいつも同じ映画。なんか虚しくないか?だが、ちょうどその時期に気づいたことがあった。

 

 観るたびにだんだん「解像度」が上がっていくのだ。例えば、「競演のレヴュー」のラストで神楽ひかりが「まひるちゃん、本当の舞台女優みたいだった!」と言うシーン。パンフを読んだ後、このセリフが「舞台少女」から「舞台女優」への成長というテーマを体現したものだと気づいてハッとなった(ハァン、ではなく)。

 

 この時期は、観るたびにどんどん新しい顔を見せられていく感じだった。どこかで監督が、「一つの画面にできるだけ多くの情報量を詰め込んだ」と言っていたように、一回観ただけでは処理しきれないレベルの情報量がこの映画には詰め込まれている。だから、観る度に新しい発見があり、どんどん「劇場版スタァライト」の解像度が上がっていく。その楽しさが、周回した理由だと思う。

 

 まぁ、そういう理性的な面だけではなくて「あのシーンをもう一回観たい!」という感情的な面もあったと思う。アルチンボルドの作品のようになったキリンの顔がどアップになって、画面に色鮮やかなノイズが走るシーンがお気に入りなのだが、あのシーンは何度観ても飽きない。

 

 

レヴュー曲との相性

 四周目くらいで気づいたことだが、レヴュー曲を聴き込むのがすごく楽しい。電車の中でレヴュー曲をきいていると「これ、あのシーンで流れるフレーズだな」と気づいてエモくなり、もう一度観たくなる、ということを繰り返していた気がする。

 

 パンフで監督が言っていた通り、レヴュー曲を聴くと「劇場版スタァライト」の世界を日常に取り入れられる。聴くたびに頭の中でレヴューを再体験できるわけだ。ちなみに何度も映画を観ているとレヴュー曲が流れるたびに、歌詞には入っていないキャラクターのやり取りが脳内再生されるようになる。

 

 あとは、単純に歌詞を頭に入れてレヴューを観ると味わいが増す。やっぱり歌詞を聞き逃すしたり、聞き取れないこともある。歌詞を読んで、「スーパースタァ スペクタクル」で「ホシクバ ホシツメ ホシクバ ホシタレ」というコーラスが入っていたのを知った時には鳥肌が立った。

 

 

舞台少女は「落ちて」再生産される

 最後にすこし考察じみたことを。これは下記の「ライ麦畑でつかまえて」についての解説本の受け売りなのだが、「落ちる」ということは「死」を意味するという考え方がある。つまり「落下=死」というわけだ。直感的にもわかり易いと思う。

 

 だから、「ライ麦畑でつかまえて」は博物館のトイレの床に崩れ「落ちて」一度死んだホールデンの再生の物語なのだ、というのが「ライ麦畑のミステリー」の主張である。

 

 翻って、この「落下=死」という図式を、舞台少女たちが一度死に、舞台女優として生まれ変わる「劇場版スタァライト」のレヴューに当てはめてみよう。

 

 まず、石動双葉と花柳香子の「嫉妬のレヴュー」。清水の舞台から、デコトラに続いて二人とも落下する。続いて「競演のレヴュー」では、舞台上から神楽ひかりと露崎まひるが落下して、ミスターホワイトの上に着地。

 

 「狩りのレヴュー」でも星見純那が大場ななに吊物の上から落とされる。天堂真矢と西條クロディーヌは「私たちは、燃えながら落ちていく炎」という言葉通りにレヴューの最後に長い長い落下のシーンがある。

 

 そして「約束のレヴュー」(だっけ?)では、文字通り死んだ愛城華恋が東京タワーから落ちてポジションゼロに変身し、列車にのってタワーの上に戻ってきて「再生産」される。

 

 「再生産」と言うからには、それまでの自分が死ななくてはいけないわけで、そう考えると「落下=死」という図式を当てはめながらレヴューを観ると中々しっくりくるのものがある。そして、敢えて言及しなかったが一人だけレヴューの中で「落下」しなかった舞台少女、彼女は一体…?とまた考察が広がるのではないだろうか。

 

 
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