「偽りのない事実、偽りのない気持ち」は、テッド・チャン「息吹」収録の短編。デジタル記録が発達した世界での「正しさ」とは何かを、近未来と近代の二つの世界の物語を通して問いかける。
あらすじ
物語の舞台は、今まで網膜に映ってきた場面を「ライフログ」として記録できる近未来。ライフログを瞬時に検索できるツール「Remem」が発売されたのを機に、ジャーナリストである「私」は取材をはじめる。
リメンの特徴は、革新的な検索補助システムにある。
リメンはユーザーの会話を監視して、過去の出来事についての言及を見つけると、視界の左下隅にその出来事の映像記録を表示する。「覚えてる?あの結婚式でコンガを踊ったの」といえば、リメンはそのときの動画を再生する。
リメンを使えば、人類は曖昧な記憶に頼らず常に正確な記録にアクセスできるようになる。そうして完全な「デジタル記憶」を持ったら、人はどうなってしまうのか。「私」は取材を続け、自分もリメンを試してみるが…。
もう一つの物語
完全な記憶をもたらすデバイス「リメン」を巡る物語とは別に、「偽りのない事実、偽りのない気持ち」ではもう一つの物語が語られる。主人公はナイジェリアのとある部族、ティヴの少年ジジンギ。ティヴ族は代々口承文化を守り、文字を使わなかった。
村にやってきた伝道師のモーズビーからジジンギは文字を教わる。ジジンギは「単語」の存在や書くことによって思考を整理できることを発見する一方で、紙に記された物語が語り部の生き生きとした語りには遠く及ばないことも知る。文字を持たない民族の中で文字を学んだジジンギは成長して書記の職を得るが、ある日自分のアイデンティティを揺るがすような事件が起こり…
※ここからネタバレ※
信じたい真実と、不都合な真実
「私」とジジンギは、それぞれリメンと文字という二つの装置に触れるうちに、ある「食い違い」に直面する。
「私」の場合、食い違いが起こったのは自分と娘との関係のターニングポイントになった過去のある場面だった。自分の記憶では娘が自分にひどい言葉を言ったと記憶していた。しかしリメンによると、それは自分が言った言葉だったのだ。
そしてジジンギの食い違いは、尊敬する語り部の伝える伝承と、ヨーロッパ人によって書かれた記録との不一致だった。
リメンの記録や書かれた記録が正しいことは疑う余地がない。では、間違った事実を真実だと思って心の支えにしてきた自分は、いったいどうすればよいのか?「私」とジジンギは悩み、そして正反対の結論に辿り着く。
ミミとヴォウ
ティヴ族の言葉にはヨーロッパ人が言うところの「真実」を表す単語が二つある。一方は、自分が正しいと思うことを意味する「ミミ」。もう一つは正確なことを意味する「ヴォウ」だ。わかりやすく言うと、ミミは主観的な真実を、ヴォウは客観的な真実を指す。タイトルの「偽りのない気持ち」とはミミのことであり、「偽りのない事実」とはヴォウのことなのだ。
ジジンギと「私」が直面した食い違いは、言い換えれば自分が信じたい真実=ミミ と、客観的事実=ヴォウ の食い違いだった。そしてジジンギは部族を納得させるためにミミを、「私」は都合のいいように事実を歪曲していた自分への反省からヴォウを選ぶ。
ミミとヴォウ、二つの「真実」のどちらを選ぶのが正しいか、絶対的な正解はない。しかし、文字やリメンのようなテクノロジーが普及すれば、ヴォウが広まっていくのは止められない。ミミへの名残を示しながら、物語は幕を閉じる。
おまけ:「忘却のワクチン」
本作と同様に「記憶」と「記録」の対比を扱った作品として、早瀬耕の短編「忘却のワクチン」(「プラネタリウムの外側」収録)がある。
両作品のメッセージをまとめると、以下のようになる。
「忘却のワクチン」
デジタル記録は絶対的に正しいわけではない。頭の中にある記憶を記録で外部化した「デジタル記憶」に頼ることには、思わぬ落とし穴がある。
「偽りのない事実、偽りのない気持ち」
デジタル記録は絶対的に正しい。真実が歪曲された記憶をデジタル記憶で修正して、自分に都合の良い記憶に溺れないようにするのが肝要だ。
「偽りのない事実、偽りのない気持ち」ではデジタル記憶を自明的に正確だとされているが、実はデジタル記憶は改ざんが可能で、絶対に正しいわけではないと「忘却のワクチン」は指摘する。両作品とも記録と記憶の信ぴょう性を扱っていながら、スタート地点の違いから全く違う方向へ話が発展していくのが面白い。本作を読んだ方は是非次に「忘却のワクチン」を読んでみて欲しい。