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【天冥の標解説】Ⅴ「羊と猿と百掬の銀河」

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守ることの美しさと恐ろしさ」をテーマに、天冥の標Ⅴ「羊と猿と百掬の銀河」の解説していきます。

「守る」美しさ:タックとノルルスカイン

本作のテーマは「守る」ことです。タックはザリーカを守るために日々農業に励み、ノルルスカインはオムニフロラの脅威から仲間の文明を守ろうと奮闘します。

 

そして彼らの守ろうとする試みは失敗します。タックの心配をよそにザリーカは家を飛び出し、誘拐されます。そしてノルルスカインはオムニフロラの進軍の前では、仲間を看取る以外なすすべがありません。

 

それでも彼らは大切なものを守ろうともがき続けます。タックは誘拐犯を追跡するノイジーラントの軍艦に乗り込み、個体展開したノルルスカインの副意識流であるアニーは、タックの農場でオムニフロラに抵抗する手段を探します。

 

しかし、タックは結局誘拐犯の追撃には加わることが出来ず、ザリーカの救出はノイジーラント軍任せになります。そして、アニーはオムニフロラへの対抗手段を見出せませんでした。彼らは基本的に無力です。

 

ですが、アニーは一連の出来事を振り返りこう締めくくります。

けれでも一眷属にすぎない自分は期待する、あるいはそのように祈る。ここで当たりの目がでますようにと。

ミールストーム、MHD、オムニフロラ。勝てる見込みがない脅威の前でも、大切なものを懸命に守ろうとする人々の可憐さ、その姿の美しさ。これが「羊と猿と百掬の銀河」の一つ目のテーマです。

 

「守る」恐ろしさ:ミスチフとオムニフロラ

しかし、タックやアニーを通じて「守る」ことの美しさを描く一方で、「羊と猿と百掬の銀河」は「守る」ことの恐ろしさも描きます。これが二つ目のテーマ。

自分たちが来た星では、絶対に、絶対にどんな種も絶滅させないから。強い力で守っていくから。

人口の9割以上を抹殺した文明を前にミスチフが言うこの台詞に、「守る」ことの恐ろしさがよく表れています。

 

オムニフロラは感染症を使って侵略する文明の人口の95%を殺しますが、必ず5%が生き残るようにします。残った5%は感染症に耐えられた「強い」生き残りであり、生き残りの力(遺伝的病原体耐性)を取り込んでオムニフロラは次の文明に進んでいきます。

 

オムニフロラが来た惑星では95%が死ぬ。でも生き残った5%は、95%の犠牲によって強化されたオムニフロラに守られる。これがオムニフロラがやっていることです。

 

こんな所業は「守る」に入らない、と言いたいところですが、そうは言えません。もともと「守る」ということは守られる側の犠牲を強いることだからです。

 

タックはザリーカを守るためとはいえ、嫌がるザリーカを首都に出さず農場に閉じ込めていました。ノルルスカインも、オムニフロラを食い止めるために「血も涙もない冷酷無残な圧政を敷い」たこともありました。

 

コロナ禍の中で外出自粛が求められたように、何かを守るためには守られる側の行動を制限する必要があります。そんな「守る」ことの理不尽さを最悪な形で実現したのがオムニフロラの侵略であり、「守る」ことの恐ろしさがよくあらわれています。

 

どちらが正義?

タックやノルルスカインと、オムニフロラ。当然タックたちが正しいように見えますが、行動理念だけみれば何かを守ろうとしている面では両者は同じです。

 

人口の95%を犠牲にするオムニフロラのやり方はどう見てもやりすぎです。しかし、自分や周りの種族を守ろうとしているオムニフロラを否定することは、タックやノルルスカインを否定することにもなります。

 

なぜ、オムニフロラは悪なのか。ノルルスカインとオムニフロラの根本的な違いとは何なのか。その答えを知るには、最終巻「青葉よ、豊かなれ」を待たねばなりません。

 

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「天冥の標」Ⅰ~Ⅴまでの記事のまとめ

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