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やる気が湧かないあなたへ 井上靖「北の駅路」

 無気力状態にある人、何もかもどうでもよくなってしまった人へ。そんなあなたが、もしかしたら共感できるかもしれない小説「北の駅路」(井上靖)を紹介します。

 

 

 作品情報

 「北の駅路」の初出は1952年の中央公論2月号。同年、文芸春秋社刊「仔犬と香水瓶」に収録された。現在は短編集「楼蘭」(1968)などで読むことができる。

 

 

起:謎の送り主

 ある日、作者のもとに見知らぬ人から四冊の本が届く。「日本国東山道陸奥奥州駅路図」という大仰な名前が付けられたその本には、東北地方の街道沿いの風物が絵付きで詳しく綴られていた。しばらくして届いたもう一通の手紙の中で、送り主は駅路図と自分の関わりについて滔々と語るのだった(以降、送り主を「主人公」とします)

 

承:底のない堕落

 若いころ、主人公は投げやりな日々を送っていた。やりたいことが見つけられずに、大学を中退。下宿に引きこもり、心配した先輩が持ってきてくれた就職の口も気まぐれな行動でフイにしてしまう。

 

主人公自身は当時をこう振り返っている。

若さに汚れているとでもいうか、そんな嫌な一時期でした。妙に何事につけても懐疑的、否定的で、前途というものに希望を持たず、自分から人生を踏み外して、暗い運命にのめり込んで行くことに妙な快感を感じているような、そんなじめじめした時代でした

 

転:助け舟

 そんなどん底の時期に主人公が出会ったのが、駅路図だった。ブローカーまがいの手段で日銭を稼ぐために手に入れた本だったものの、主人公は不思議と引き込まれてしまう。そして、駅路図を題材に小説を書こうと思い立ち、万年床を這い出して原稿用紙に向かう。

 

 結局小説は書き上がらなかったものの、主人公は駅路図のお陰で底のない堕落へと落ちていこうとしていた自分の気持ちが「肩透かしを食ったように」消えていった、と述懐する。

 

 その後、戦後の混乱の中で苦境に陥った時にも主人公は再び駅路図に救われる。駅路図を読むことで運が上向いたり、やる気が湧いてきたりするわけではない。後から見返してみると、駅路図をもとに何か創作をしようとしたことで当時の自分が一線を越えないでいられた気がする、というだけだ。

 

 主人公はこう振り返る。

金に詰まった窮余の一策と言うより、生きることに疲れ切って仕舞った人生の敗残者の心が、そこに憩うために、ふと手を伸ばさずにはいられなかったものを四冊の駅路図は持っていたのではないでしょうか。

 

 何はともあれ、主人公は駅路図に一度ならず救われて、生き続けることができたのだ。

 

結:本の限界

 しかし、「北の駅路」は「本には人生の奈落に落ちるのを止めてくれる力がある、めでたしめでたし。」では終わらない。

 

 主人公が駅路図を送ってきたそもそもの理由は、再び駅路図を換金する必要が出てきたからだった。彼は地方公務員になりおおせていたものの、公金を使い込み立場が危うくなっている。いつ破局が訪れるのか、不安で眠れない日々を送っているものの、今度はもう駅路図は助けてくれない。

 

 自分の不正がいつ暴かれるのか、というような猥雑な不安を抱えた主人公は、どうやら自分が駅路図では救われない種類の境遇にいることを悟る。どん底の状況であっても、駅路図を眺めればぐっすり眠れた日々を懐かしく思い出しながら、主人公は筆をおくのだった。

 

 

解説:底のない堕落を抜けるには

 「北の駅路」は精神的に追い詰められていた男が、不思議な形で本に救われる話です。私自身、高校生の夏に主人公とかなり似た体験をしたことがあるので、当時のことについて少し書きたいと思います。

 

 当時私は受験生でしたが、受験勉強に意味を見出せず(今思うと勉強から逃げていただけでしたが)日々を無為に過ごしていました。朝起きても、万年床に寝っ転がったまま、一日が終わるのをただ待っているような日々でしたね。

 

 そういう状況になると、本当に何もかもが嫌になってしまうんですよね。ひどい時だと、食事をするのも面倒になるくらいに。そんな状況だから、気晴らしをしようという気も起らない。夏休みということもあり、引きこもり予備軍のような生活をしていました。

 

 そうやってずぶずぶと奈落の底に沈んでいきそうになっていた私ですが、ある本に救われます。古本屋で出会った本にハマり、貪るように読み込みました。何度も読み返して、気に入った箇所はノートに書き写しました。

 

 その後の私はと言えば、一浪することにはなりましたが最終的に志望校に合格することはできました。今思うと、あの本に出会っていなければ何か取り返しのつかないことをしでかしてた気がします。多分、私は私にとっての駅路図に救われたのでしょう。

 

 やる気がどんどん湧いてくるとか、生きているのが楽しくなってくるとか、そんな劇的なことは起こりません。ただ、ちょっとしたことで「もうちょっと頑張ってみるか」という気になれることはあり、時には本がそのきっかけになります。「北の駅路」を通して作者が伝えたかったのは、そういうことだったのではないかと思います。

 

 今回紹介した本:

 

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